ベトナム建国の父『ホーチミン』ってどんな人?

ベトナム紙幣にも描かれ、最大の都市であり、ベトナム経済の中心地の地名にもなっているホーチミンという人物。ベトナム人皆に愛され崇拝されているこの人物は一体何者なのでしょうか。今回は、ホーチミンの略歴と人柄を解説いたします。

人物概要

1890年にベトナムのゲアン省ナムダン県キムリエン村という場所に生まれたホーチミンは、ベトナム独立運動の指導者にして建国の父と言われています。

年代表

ホーチミンの人生を、年代形式で見てみましょう。

幼少期の暮らし

貧乏な生活の中、儒学者の父の影響で、幼少から中国語を習得したホーチミン。 その後、父が出世しベトナム王朝の「阮朝」の宮廷に勤めることになったそうで、ホーチミンも共にフエに移り住み、官吏を養成する名門校に通い、フランス語を学びました。

20代の頃の暮らし

中学校の中国語、フランス語、体育教員となりましたが、21歳の頃、世界を知りたいとフランス商船に見習いコックとして乗り込み旅に出ました。その頃祖国ベトナムはフランスの植民地でしたので、同様に植民地だったアフリカなどを巡ったり、ニューヨークやロンドンでコックや肉体労働に精を出したりして過ごしました。

フランス社会党入党

29歳のころから、フランス社会党機関紙に記載されたレーニンが書いた記事を読んで影響を受け、共産主義者を目指すようになります。

その後ロシアに渡り、共産主義者として認められたホーチミンでしたが、彼は共産主義社会の実現よりも、ベトナムがフランスから独立することを目標としていました。フランス社会党在籍中には、「ベトナム人民の要求」という請願書を世界に向けて発表し、ホーチミン氏は世界的に注目を集めます。

中国に派遣された彼はベトナム独立に向けた同志たちと交流を図り、ベトナム共産党発足の足掛かりをつくりました。

ベトナム帰国後

1941年、30年ぶりにベトナムに帰国したホーチミンは、本格的な独立運動を開始します。この頃、フランスはドイツに負け、同盟国の日本軍がベトナムに進駐していました。ホーチミンはベトナム独立のための組織、「ベトナム独立同盟会」を組織し主導します。

1945年 8月15日、日本がポツダム宣言を受諾したことにより、ベトナムは事実上無政府状態になったことを受けて、ホーチミンは翌日に早速臨時政府のベトナム民族解放委員会を選出し、全国総蜂起を呼びかけます。 ベトナム各地で蜂起が発生し、ついにホーチミン率いるベトナム独立同盟会がベトナム全土の権力を掌握しました。そしてベトナム民族解放委員会が改めてベトナム民主共和国臨時政府として発足します。

日本の傀儡国家(ある領域を統治し、名目上は独立しているが、実態では事実上の支配者である外部の政権・国家によって管理・統制・指揮されている政権を指す。 内政も外交も自己決定権が完全ではなく、支配者の利益のために操作・命令され統治される。)となっていたベトナム帝国は、第二次世界大戦終結の年、バオ・ダイ帝が退位したため滅亡しました。

これを受け、ホーチミンは同年9月2日にベトナム独立宣言を発表し、ベトナム民主共和国を建国したのです。

第二次世界大戦直後

しかしベトナム民主共和国はフランスはもちろん、アメリカやソ連など連合国側の国々から正統政府として承認しされませんでした。しかも、ポツダム協定で北緯17度線より北に中国軍、南にイギリス軍が駐留することになり、のちにフランスが南部の都市サイゴンの支配権を奪い、南部は再びフランスの支配下に置かれてしまったのです。

ホーチミンは中国の進駐が長引かないように、フランスを宗主国として再び受け入れることにしましたが、ベトナムの独立を主張するために幾度もフランスと交渉しました。そして、1946年3月にハノイ暫定協定を成立させ、ベトナムの独立を認めさせるため本協定に調印するべくフランスに渡りました。しかし、フランス政府がベトナム南部に新しく親仏政権を樹立したことを知ると、なんと交渉は妥結寸前で決裂してしまいます。

インドシナ戦争勃発

1946年の年の瀬、フランスはベトナム民主共和国軍に攻撃を開始しました。ホーチミンもこの攻撃に抗戦を開始しました。ホーチミン率いる民主共和国軍は軍事力では不利でしたが、ベトナム北部の山岳地帯「ディエンビエンフー」に籠り抗戦を続け、ゲリラ戦を仕掛けながらフランス軍を圧倒します。

同タイミングで、ホーチミンは民族統一を優先するため、表向きには解散したことにしていたベトナム共産党組織を復興させ、ベトナム労働党を結成しました。ベトナム労働党と国家の最高指導者となったホーチミンは、独裁体制を築くことはなく、第一書記や首相をそれぞれ別の人物に任せ、自身は国家主席として外交問題や国民を集会やラジオ演説を通して励ますなど、ベトナムと国民のために誰よりも尽力しました。

この戦争は7年にわたって続きましたが、1954年にフランス軍の拠点が陥落したことで、ベトナムが勝利します。

ベトナム戦争

しかしその後、アジアにおける共産圏阻止を名目にアメリカが南部に干渉を始めます。そしてサイゴンを中心とする「ベトナム共和国」と、ホーチミン率いるベトナム民主共和国は南北に分断され、ベトナム戦争に突入しました。残念ながら1969年、9月2日。ホーチミンは戦争の終結を見ることなく享年79歳で突然の心臓発作によってこの世を去ります。

ベトナム戦争が終結し、南北が統一したのはその6年後の1975年でした。彼の人生はまさに現在のベトナムの礎を築いた人生でした。

人柄

慈愛に満ちた行動

ホーチミンのポケットにはいつも子供たちに配るための飴が入っていたとか。優しさを漂わせる、立派なひげをたくわえたビジュアルとその気の良さから、人々は彼のことを親しみと尊敬の念を込めて「ホーおじさん」と呼んでいました。

高潔な人物

ホーチミンは、腐敗や汚職、粛清といったことをとにかく嫌い、自らも決してそういったことに手を染めることはありませんでした。こうした一面も、今でも多くの国民が尊敬する理由の一つです。

神格化を嫌う

ホーチミンが歴史上の他の指導者たちと大きく違うところは、独裁体制を作らなかったことや、自らの神格化を嫌っていたことが挙げられます。そのため、彼は過去の私生活を一切公表しませんでした。しかし、その謎に包まれた私生活が、逆にどこか神聖で神秘的なイメージを定着させてしまったのです。

そして彼の亡き後、後継者たちはその意思に反して彼を神格化し、体制の強化に利用してしまいました。ホーチミンさんは遺言を何度も書き換えていますが、このような事態を予見してか、「葬儀は質素に」「遺体は火葬し、北部、中部、南部の三か所に分けて埋める」という遺言は変わらず残し続けました。

質素な生活ぶり

ホーチミンが晩年に住んでいた家「ホーチミンの家」が、現在もハノイ市バディン区にあります。国のトップとは思えないほど質素な家で、ここらかもホーチミンさんの人柄が伺えます。

同じ敷地にある1954~1958年頃まで生活していた家の書斎には、昭和天皇から贈られた日本人形が飾られています。こちらの家も同様に実に質素な造りで、家具も随分と少なく、彼の暮らしぶりがうかがえます。

まとめ

ベトナムの未来を切り開き、新時代を作ったホーチミン。その行動力だけでなく、温厚な人柄や国民に寄り添う心がしっかりと国の人々に伝わっていたからこそ今も多くの国民に愛されているのかもしれません。

現在もベトナムにはいたるところにホーチミンの像やホーチミンにまつわるものがあふれています。旅行に行った際は、本日お話しした歴史を思い出しながら見てみて下さいね。